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これからヨガインストラクターを目指す方へ

今秋、1年半ぶりにインドを訪れました。ヨーガの聖地とかつて言われたリシケシに、1ヶ月滞在してきました。 滞在中、私は「なぜここに来たのだろう?」ガンジス川を目前に、何度も自問しました。 ガンジス河は相変わらず流れ、私はそれをただ眺め。 声無きものの存在以外に、私の問いに答えをくれる人はなく、疑問を抱えたまま帰国してきました。 2014年が終わる今、私はその答えを得たように思います。 人間は、不可視のものに興味を抱く傾向があります。好奇心や怖いもの見たさ、悪戯心から心霊現象、ス ピリチュアル、宇宙人、ヒーリングといったことに興味を示す人もいます。 そうした大衆的価値観を触発するかのように、情報の世界には、スピリチュアルな情報が氾濫しています。 でも、その中のどれを何を、誰を信じたらいいのでしょうか? 現代ヨーガも、まさにその氾濫の真っ只中です。 私たちは、正と不正、光と闇、そうした二極から学んでいくのですから、氾濫してしまうのも不正が出るのも仕方ないことです。 リシケシは、小さな町のほぼ全域がヨーガ教室。ヨーガの観光地です。その教室のいずれもが、短期集中型の TTCを開催していました。 朝、屋上で洗濯物を干していると、先生にいやいやポーズの練習をさせられているTTC受講生がよく見えたものです。 かと思えば、夜は夜で特殊な瞑想の手法である叫び声が響き渡る中、耳せんで過ごしたこともありました。 その特殊な瞑想による雄叫びは、TTCのカリキュラムの一環だそうです。 小さな町のカフェは、TTCの受講生たちでどちらもいっぱいです。生徒たちは、短期集中型のカリキュラムに追われています。授業の合間にポーズを練習している光景も、リシケシでは当たり前の風景になりました。 「インド人からでないとヨーガは学べないのか⁉︎」へそ曲がりかもしれませんが、そんな疑問が何度も頭をよぎりました。 日本人のお若い方々も、よくお見かけしました。カフェでだらしなくたむろしている光景を見る度、資格を与えるよりも、お若い方々にこうした態度を躾てくれる大人の先生が必要だと思いました。 何かが違うと感じずにはいられない光景の数々を、今回のインド滞在で見てきたことは、よかったと思っています。 リシケシに長く住む知人が、帰国間際にこう言いました。「昔のリシケシは違った。今のリシケシにはもうヨーガはない。若いヨーガティ

ヨーガ指導の現場から

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アジャストという用語があります。ポーズの姿勢を修正する、または正しく誘導するために、相手に手を触れて支える指導法の一つです。 一時は、インストラクター向けのアジャストのワークショップが流行し、現在ではアクロバティックな手法も開発されています。 ですが、ヨーガそのものからアジャストをみてみると、グループでのヨーガの実習には、それほど必要ではありません。とは言え、「怪我をさせたらどうするの?」とご心配させてはなりませんので、その理由に触れてまいります。 まず、ポーズを行う前は、現在の身体能力をよく見極めて下さい。関節の可動域、筋肉の柔軟性、自体重を支える脚筋、重心のとらえ方、そして、姿勢がもたらす肉体の圧力に耐えられる精神力と集中力のレベルです。 これらを総合して見極めた上で、その能力に適した範囲でポーズを行っていきます。そうすれば、体に無理な負荷をかけることになりません。怪我をすることも体を痛めることもありません。ポーズに瞑想するように、心地よくできます。 ですが、その範囲を超えて行うと、悪影響の可能性が出てくることは、実際に起きているだけに現実的な話です。 次に、ヨーガのポーズの意識状態は、スポーツやエクササイズの時とは真逆の落ち着いた状態で行います。自律神経は、リラックスの時の副交感神経が優位となるように。呼吸は静かに深く。冷静に、そして集中できるように。 ポーズに対してチャレンジする気持ちが湧いてきたら、もうそれ以上頑張らず、手を引いて下さい。何とかやろう、これも控えます。落ち着いた状態にただよい様にポーズを行って下さい。 この原則を守ってヨーガを行ってさえいれば、むやみやたらにアジャストをする必要はありません。そうすれば、アジャストに歩き回らない分、どなたも一人で静かに集中でき、教室内も静かな落ち着いた空間になります。 ポーズは、微細なエネルギーや心の深い領域に働きかけるためのツールです。ですから、ヨーガのポーズを実践することで、内側に変化をもたらすことができるようになるのです。 当教室は、TTCでは学びきれなかったヨーガを、ゼロから学び直せる場所です。学びをやり直すことは、良いことです。しっかり学んでみて下さい。不安が自信に変わります。 「私が教えていいのだろうか?」ご

ヨーガ、聖なる仕事人

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~物質的世界とヨーガの狭間で生きて~ ヨーガが世界中に知れ渡り、10数年が経ちました。私がスポーツクラブでヨーガのレッスンを初めて目にした時は、20代の頃。参加者はわずか2~3人で、スタジオ内が暗い印象でした。当時は、癒しという言葉も使われていませんでした。じっとしているその姿が、誰の目にも奇妙に映り、憧れどころか気味悪がられていたものです。 ところが今はどうでしょう。ハリウッド女優はヨーガインストラクター役を演じ、ヨーガの雑誌が出版され、おしゃれな世界に生まれ変わりました。ヨーガ産業も生み出され、ヨーガスタジオが続々とオープンしました。人々はこぞってヨーガインストラクターを目指し、インドにはヨーガ大臣まで誕生しました。 一頃は、インドビザ申請用紙の職業欄に、ヨーガ講師と書かないでくれと言われたほどです。ヨーガが盛んになったことで、本場インドに入国者が一気に増加してしまい、ヨーガ講師と書くと不正ではないかと疑われるからとまで言われ、この事態には驚きました。 そういう私は、この流れに存分に漬かっていたかというと、実はそうではないのです。どこか冷静な私がありました。フィーバーとも言えるこの流れを、客観的に冷静に眺めてみると、何かがおかしいと感じるのです。 ヨーガというこのフレーズの背景にある真髄から、現代のヨーガ事情を眺めると、何かがおかしいような、分裂しているような感覚を受けるのは・・・、私だけでしょうか? 10年程前、パワーヨーガ、ヴィンヤサヨーガと名のついたヨーガレッスンをアメリカで受けていた時、20代の頃同じ場所で受けていたエアロビクスの激しい呼吸による波動と変わらないものを感じました。 当時のエアロビクススタジオが、そのままヨーガスタジオに変わっただけで、そうした激しいヨーガにより、アメリカ人の特質と言われる攻撃的な側面が、より強化されているように見受けられました。「シャンティ~」とは唱えるものの、何かが違うと感じながら、L.A中のスタジオを巡りました。 認知度が低かったヨーガ。それが、世界中に認知されるまでの流れの中で生きて今思うことは、やはり変わりません。「何かが違う」 そして、変わったことは「やっぱり違った」と確信に至ったことです。 この確信に至るまで、私は様々な道のりから、このヨーガ事情を見るよ