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1月, 2015の投稿を表示しています

死の間際までヨーガとともに

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3年前の今ごろのことです。寒い冬のお正月明けのころ、一人の女性が初めて魂の道場を訪れました。 今世で初めて対面しました。 1ヶ月後に地上を去る神様との約束がある彼女に。 「先生、私、病気なんです」 私は、「貴女は病気(という人)ではありませんよ」とお返しました。 それから半年間、この道場で一緒にヨーガを学びました。 私に「もっと生きたかった!好きな人と恋愛して、結婚して、子供も産みたかった!」と叫んでいました。 私は、洗濯物をたたみながら駄々っ子を背中であやす母親の様に、黙って聴いていました。 刹那な彼女の姿を、道場にいる時ふと思い出すことがあります。 私はこれまでの指導人生で、あれほどまで真摯に、命をかけてヨーガを学ぶ方とお会いしたことはありません。 それは、魂から込み上げる想いのようでした。 彼女がヨーガを学んだのは、わずか半年でしたが、 それで良いのです。 彼女は、今生で十分にヨーガを学び切りました。 ヨーガは、200Hや500Hといった時間単位ではかれるものではありません。 生き方に反映されているかどうかです。 彼女は、現代のヨーガインストラクター以上に、ヨーガについて熟知していたと言っても過言ではないであろうと思っています。 彼女は、TTCではとても学べない経験をされました。 彼女のヨーガはまさにヨーガ、変容、 死を受け入れる ことでした。 自分のガンを通して、心の正体を学びました。 心が病気の原因であることを、自らの病からさとった彼女は、心を清めることに意識を向けました。 そして、ヨーガの扉を開かれたのです。 真のヨーガの扉は、苦しみと引き換えなのかもしれません。 死にたくない、死ぬのが怖い。 そう言っていましたが、「でも、先生。これを受け入れることが、私のヨーガなんですよね?」 動き始めた自然の摂理を、地上の人間が止めるこなどできません。真理を受け入れることも学びました。 自然の摂理は、ガンに蝕まれていく彼女の肉体を衰弱させ、代わりに心を清めていきました。 彼女は、管だらけになった肉体でも、日常の小さなことに感謝していました。 もっともっと、友達に優しくすればよかったと言っていました。 残された人は、逝った方に対して、もっと優しくすればよかったと悔やむことがあります。 でも、逝く人も

ヨーガあの道この道

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同胞である動物を苛めないで 「私、ポーズが得意じゃないのですが・・・」 アーサナができなくても、まったく構いません。健康であることに努力できれば、 ウォーキングでも水泳でもよいのです。 人間は、肉体を使って魂を表現する霊が本質の存在です。 魂が地上で生きるには、肉体が必要です。神様から頂いた肉体は、健康という状態がふさわしいのです。 ヨーガは健康になることが究極の目標ではありませんから、もしもアーサナが出来なくても、それはヨーガはできないことにはならないのです。 道はいかようにもあります。諦めないで下さい。 アーサナができなければ、代わりに適度に汗をかく程度の運動で大いに結構です。ただし、やり過ぎには気をつけて。 「今、身体を動かすことができないのですけど・・・。私は、ヨーガはできないのでしょうか?」 それでは、心のヨーガをしませんか? 魂の栄養になる本を読みましょう。理解できないところがあれば、お手伝いします。 古い価値観や教えに縛られていないか、人工的なヨーガに迷信していないか、今持っている知識を調べてみましょう。 誤った知識が入り込んでいたら、潔く手放して、霊性を高めてくれる真理を受け入れる準備をしましょう。 ヨーガの目標は、アーサナができるようになることではなく、霊性を高めることです。人間が霊性を高めることは、肉体を健康にすることより大事なこととされています。 なぜなら、地上では、肉体の健康の方が価値あるようにされていますが、ブーヴァ・ローカ(幽界)では霊核の方に価値が問われます。こちらでは、肉体は必要ないのですから。 次へ行く世界を見据えて、今地上に在るうちから霊性を高めておきましょう。 「運動も、本を読むこともできないのです」 そうですか。では、瞑想をしましょう。身体を動かせなくても、本を読めなくてもできます。瞑想がヨーガの真髄であり、あなたの霊性を最も高めてくれるものです。 人間は、行動し続けているかぎり、本能的な意識に縛られています。瞑想を通して、自己の霊性を自覚できるようになります。 「運動も本を読むことも、瞑想もできないのです」 そうですか。では、今在るその境遇を受け入れるヨーガをしましょう。境遇こそ、自然の摂理が最大

Yoga is the path of god.

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水を通してつながる蝶 You have choosen the path of god is a correct way. Your mindset for the god path will lead you towards for divinity. If you will be spiritual and divine a lot, person will be attracted towrds you. このメッセージがメールで届いた時、ヨーギである友人に感謝しました。 なぜなら、ヨーギとは、つながった人。 友人の言葉は、魂からのメッセージの様に感じられ、この胸に響きます。 そう。それもまるで、神様からの質問のようでした。 「答えはゆっくりでいいから、考えてみてほしい」 「カルマの道、ダルマの道。どちらを歩む?」 カルマの道は、ヨーガのTTCをやって、生徒を集めて、またTTCをやっての繰り返しだ。そこら中にあるヨーガスクールと同じことをするか。 ダルマの道は、神のために働くこと。ホーリーワーカーだ。 質問した方は、私にそう説明しました。 ゆっくりでいいと言われましたが、考える必要もありませんでした。 私は、「ダルマの道」と答えました。 その一言から、私の人生は次のステップへ上りました。 これは、昨秋インドにいた時の出来事です。 ダルマの道で、どのように務めていくのか。質問した方は、そのルールを教えてくれました。 私は、その一つ一つを守ることに努めています。 Facebookを解除したのは、そのうちの一つを守るためでした。 花を通してつながる蝶 さて、ヨーギニの名は、現代ではオシャレに使われていますね。 果たしてこの意味は、認知されているのでしょうか? ヨーギニとは、男性名詞のヨーギと同じで、チャネル、通路、つながっている人のことを指します。 日本語で理解すれば、霊媒と同じです。 人間がもしも、正しいものと正しくつながることができれば、どういう地上になるでしょう? だから、地上の私たちは、まずはヨーガを正しく理解すること

人生こそがヨーガの師

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日本は豊かな国です。 それを知る機会になったのは、インドで生きたあの日々でした。 冷暖房完備もなく、電化製品にも囲まていない。自然はありのままに、 虫は虫のままに。 何もかも が共存であったあの日々が、それまで日本で生きてきた生ぬるい私の意識を変えました。 2010年、1年間の期限付きのヨーガvisaを、インド大使館から特別なはからいで頂き渡印しました。 当時の私は、日本には帰って来ないつもりで片道航空券を買いました。 一番大きな真紅のスーツケースに、それでも収まりきらなかった荷物を他にも持って、2月6日の私の誕生日に日本を発ちました。 私の部屋は整理整頓され、洋服も全て売り払い、誰かに明け渡せる状態にして行ったのです。 かつては大家族であった大きな家に、年老いた母と猫2匹、ピアノを残して。 大袈裟ですが、それほどの覚悟でした。 何に対する覚悟? ヨーガに自分をささげる覚悟です。 ヨーガの人類救済のはからいの為に、必要であればこの私の肉体をこの声を、この女の人生を使って下さい。 なぜなら、私はあなたのもの。 大沙汰に聞こえるかもしれませんが、私には呼吸と同じくらい自然な想いなのです。 さて、現代のヨーガを学ぶ手段は、ヨーガスタジオやヨーガ教室、アシュラムと言われる道場がはじめに考えつくでしょうか? 他に、ワークショップや大きな団体から学ぶ、インストラクター養成講座、資格取得、リトリートなど様々に選択肢があります。 様々な選択肢⁈ たった、これだけで? という声が聞こえてきそうです。 確かにそうかもしれません。ヨーガという無限の知識の選択肢が、上記の限りでは。 私は、その選択肢の限りを超えたかった。 その想いは、魂からの熱望とも表現できるものでした。 だからと言って、インドへわざわざ行く必要はないのです。 創始者の息は、この宇宙の全てにかかっているからです。 ヨーガをツールにして、先進国の日本人がこの先進化していくには、まず、インドでヨーガを学ぶという思い込みを

ゴリラと飼育員さんの魂のヨーガ

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さて、もしもあなたが人間ではなくゴリラになってしまったら? どうやって、本当のあなたは人間であったことを思い出しますか? ゴリラの肉体の中に入れられてしまったあなた。 ゴリラの本能は、肉欲的です。 あなたは、前は人間であったとしても、ゴリラの肉体の中に入ってしまえば、ゴリラなのです。 ゴリラという制限の中で、生きていかなければなりません。 ゴリラの肉体に入ってしまったあなたは、人間であったことなどすっかり忘れてしまいました。 あなたは野蛮になり、目を合わせようものなら人を威嚇して、暴力的になってしまいました。 人間のころの思いやりや慈しみ、分け合うこと、他者のために祈ることをすっかり忘れてしまったのです。 動物の本能で生きるしかなくなってしまったのです。 優しい愛の言葉も、ゴリラのあなたには響きません。 言葉を理解する脳がないのです。 そのことにさえ、ゴリラの中に入ってしまったあなたは気づきません。 今ゴリラであるあなたの本質は、人間であることを思い出すには、どうしたらよいのでしょうか? そんなゴリラのあなたを、不憫に思ってずっと見ている優しい飼育員さんがいました。 ある日、飼育員さんはゴリラ達の檻の前で一人で考えていました。 「君はね、本当は人間なんだよ。無意識にバナナをガツガツ食べているけど・・・」 「以前の君はね、もっとバナナも味わって、一つをじっくり体験して感じることのできる人間だったんだよ」 「私と目が合っても、威嚇することもなかったの。人間の優しさを、君は本当に忘れてしまったの?」 「どこかで覚えていないの?」 食べてはバナナの皮をポイっと投げ捨てるゴリラを見かねて、飼育員さんはゴリラに人間であったことを思い出させようと決意しました。 ところが、まわりの飼育員の人はみんな、野蛮なゴリラになってしまったのだから、人間であったことを思い出させるなんて、無理だバカなことだと言って、誰も賛成してくれませんでした。 飼育員さんは、とても悩みました。 野蛮な君に、どうやって知性と品格を取り戻したらいい? どうやって、人間の(神の)言葉を感受する脳にできるのかな? 丸く曲がった背筋が伸びて、五体を繊細に機能させるには、どん

真のヨーガよ飛んで行け

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神様、真のヨーガに出会えますように ヨーガ指導者、ヨーガインストラクターという肩書きを持つ者は、知識を普及するという責任感と使命感を持たなければなりません。 癒しと、言葉には簡単にできます。 ですが、真の癒しは、短期の講座で癒し方を習得できる次元のものではありません。 単なる我が儘からくる心の状態なのか、今本当に癒さなければならない状態なのか、見極める識別力もないままに、何でも癒せば良いというわけではないのです。 なぜなら、苦しみや苦痛も浄化の行程である場合があるからです。 その過程にいらっしゃる魂をお持ちの方には、おそばで見守りながら、苦痛を理解して差し上げ、それを乗り越える真理をお伝えしながら、通過して頂けるように援助します。 苦痛の体験が、浄化になっている場合は、その苦痛を長引かせないためにも、安易に癒しを与えたり、苦痛を解放しますと言って、取り去ってはならない場合もあるのです。 この様な浄化の場合、自然の摂理によって起きていることが考えられます。 自然の摂理には、人間は逆らってはなりません。 癒しブームを安易にとらえず、責任を持って学んで下さい。 世の中には、命のことを考えながら、ヨーガをやりたいと探していらっしゃる方々がたくさん存在しています。 ヨーガは、死の準備と言われます。 ヨーガは、死生観を持って真摯に命を生きようとされている方が、地上で魂を成長させるために学び、実習するものだからです。 ですが、現代のヨーガはオシャレなイメージが先立ち、真のヨーガをお求めの方々の行き場が少ないのです。 もうそろそろ、本当のヨーガが表立つ時です。 なぜなら、生きている間に自覚しなければならないことが、人間にはあるからです。 なぜ生まれ、そして逝くのか。 この重要な課題を、時が近づいてから知るには遅すぎます。 そのことに気づかせるような温かいメッセージがありました。 人と出会い、死と向き合い、人生は輝きだす。 これは、24日に公開された映画 おみおくりの作法  のキャッチフ

Sujataさんのヨーガ道

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Sujataさんは現在、高尾のお寺様でヨーガ教室を主宰されながら、 ヨーガインストラクターとしてもご活躍中です。 さて、Sujataさんのヨーガ実習記、 気になりますね。 ↓↓↓ 今日 は、我がヨーガの師であるお教室のハタヨーガ実践クラスで、 ヨーガの実習に参加して参りました。 都会の真ん中にいるとは思えないほどの静けさの中、 ヨーガの実習は始まりました。 同じ関節ほぐしを行っても、同じアーサナ(ポーズ)をとっても、 その時の自分の肉体や精神状態、 そして意識の持ち方で毎回違う感覚を得ることができます。 今日はそのことを深く、そして強く感じられた実習の時間となりました。 「人間は脳のシステムによって支配されている。だから、常に意識的に、全て意識して行動すること。自動的になってはいけない。   同じ動きをしていても、新しいことをしているのだということを脳に伝えていくこと。 そうすることにより、古い記憶を新しい記憶へと、悪い癖を良い方向へ正すことができる。」 ヨーガの師は、アーサナを行いながら、こういった生きるための智慧を次々に吹き込んでくれます。 このお教室のお寺さんの入り口にある黒板に書かれていた劉希夷(りゅうきい)の言葉。 「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」 毎年同じように花は咲き、やがて散っていきます。 毎年のことなのに、花を見て喜び感動を味わいます。 花は同じように咲くけれど、それを見る人の心は決して同じではない。 同じ花を去年も見ているのに、去年とは違う喜びや感動を味わっている。 そして、毎年毎年同じ姿で花は咲くけれど、それを見ている人間の姿は、年ごとに変る。 なんとも儚い歌ではありますが、ヨーガの実習と重なる部分があり、この言葉に心惹かれました。 この詩のように、ヨーガの実習も、繊細に意識して行うことで、 同じアーサナでもいつもとは違う新しい感覚を味じわうことができます。 肉体を整えることにより、体に変化が現れ、 それがやがて心の変化へと、体と心の調和をもたらすことができます。 -意識すること。 自動的にならずに。 心の良き成長を目指して- 今日のこの気づきに感謝いたします。

プラーナーヤーマからはじまるヨーガ

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ヨーガというと、パッと思いつくのはアーサナでしょうか? 本当のヨーガは、アーサナよりも実はプラーナーヤーマを重んじています。 インドでは、プラーナーヤーマ専門のクラスもあるほどです。 ヨーガの実習には、欠かせないものです。 とはいえ、高度な内容になるため、誰でもすぐに取り組めるものではないのです。 はじめはポーズからヨーガの意識の使い方に慣れていきます。 次第に心と体、意識がプラーナーヤーマに適した性質になってきたら、実習に入ります。 プラーナーヤーマは、ヨーガのエネルギー調気法と呼ばれています。 呼吸法という名でも認識されていますね。 呼吸法と聞くと、呼吸を深め、呼吸を改善させるものと理解されがちでが、本来の意味は、呼吸をコントロールすることで、エネルギーや心の働きをコントロールできるようになることです。 エネルギーや心といった不可視のものをコントロールすることは、肉体をコントロールするポーズより難易度が上がります。 アーサナの練習は好き。でも、プラーナーヤーマはあまり好きじゃないという方が見られます。 その通りです。 単調なプラーナーヤーマを実習することは、確かに容易なことではありません。 単調だと、飽きてしまうからです。 ですが、プラーナーヤーマをないがしろにすることはできません。 アーサナの実習だけで意識の向上をはかるには、なかなか実現しがたいです。 アーサナの練習だけでは、微細な意識が育っていかないからです。 ヨーガの実習内容が、アーサナに固執して、瞑想やプラーナーヤーマが付属品のような内容になっていますが、これは心のバランスを失うことになります。 アーサナを練習すると、色んな技をできるようにはなるかもしれません。 ですが、肝心の心の浄化に働きかけること、心と意識を高めることが同時に為されていないため、ヨーガをやっているつもりが、エクササイズの効果にならざるを得ないのです。 それをヨーガだと誤解なさって、やり続けないようにして下さい。 心のバランスをくずす原因になりかねないからです。 何年ヨーガをやっても、魂的な成長がみられないという方は少なくありません。 実習内容に偏りがあったり、個人に適し

魂のヨーガをあなたから

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当教室には、ヨーガを実習する魂の道場の他、ヨーガ指導者になるための道があります。 この道を歩むご準備が出来た方、使命をお持ちの方、 学ぶ時期が訪れた方々が、奉仕の志しから学び、目的に向かって成長して頂くための場所にするためです。 つまり、物質的社会に出ていく前に、きちんと準備をして頂くため、自己を訓練するための場所です。 ヨーガの指導は、単にポーズのやり方を教えられるだけでは務まりません。 まず、ご自身にヨーガの実習を重ねて頂くことが前提です。 その過程にまつわる苦労を味わう体験が、根底になければならないのです。 そうした紆余曲折の経験を経た結果、「正しいことを知りたい!」 「なぜ人は苦しまなければならないのか?!」といった熱望に至る経験がなければ、 大衆の価値観から想像で理解したヨーガの固定観念や偏見を手離して、 責任をもって正しくヨーガを理解することに、努力しようとはなかなかに思いがたいからです。 ポーズだけではなく心の筋力も鍛えてね 雑誌に登場するモデルインストラクターのヨーガレッスンの世界と、様々な人生を抱えた人間が行ずるヨーガの世界には、天と地ほどの差があります。 魂のヨーガの指導は、憧れだけでは務まりません。 ですから、指導者に必要な力をつける為、 どんな試練にも耐え抜いていけるように、きちんと志しをお持ちになってから取り組まれることを、どんな方にもお勧め致します。 指導者への道のりで遭遇するあらゆる体験から、ヨーガを指導するにふさわしい心と体、精神を養い、魂へ貢献させて頂くため 自己を犠牲にできる情熱を内に秘めた指導者へと、ご自身を鍛え上げて下さい。 霊性を開く道には、魂の乗り物である肉体の健康を別に考えることはできません。 「心と体はつながっている」これは、今や誰もが耳にするフレーズですね。 これを認めるならば、ゆがんだ心のまま生きていては、体もゆがんでいくことは明らかなことだと思いませんか? 人間は、肉体のゆがみの通りに物事を受けとり、理解していくという特質があります。 こうした基本的なことを知らないまま、悩みを解消しようと闇雲に手を出されている方が大勢いらっしゃいます。 ゆがんだ心のご本人は、それ

Jai Shree Krishna Yogneyi Juna ji

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Jai holy gau mata holy cow 北インドにいるホーリーワーカーの同胞から、添付ファイル付きのメールが届きました。 開けてみると、友人が山で飼う聖なる牛の写真でした。 友人の聖なる牛は、俗世間から離れたヒマラヤの山の麓で飼育されています。 インド中にいる野良牛と違い、世俗的な世界に降りたことのない純粋な牛です。 彼は、真の意味で聖なる牛を神のために飼育しています。 理由は、ただそれだけです。 誰に見せびらかすでも、自慢するでもなく。 聖なる牛は、毎日10時~17時に放牧されます。 ヒマラヤの新鮮な空気と、神聖なプラーナを吸収した野草を食み、散歩の日課をこなします。 聖なる牛の体内には、不純なものは一切入っていません。 一方、インドの街中にいる野良牛は、人間の捨てたゴミを餌に生きています。 見るもの聞くものすべてが、一貫して聖なるもので統一されている牛なのです。 友人いわく、聖なる牛の尿は、人間を浄化してくれるのだそうです。 牛の尿⁉︎ 驚きましたが、いたって真面目に話す友人を見ていると、ふざけた話ではないとわかりました。 少量飲むだけでいい、そう力説していましたし…。 全ては、神のはからい。 そう言う友人は、私のことをこう呼びます。 Yogneyi Juna 神のはからいが働き、聖なる山で聖なる牛に私も会えるのでしょうか? そして、聖なる牛の尿を飲むのですね・・・。 「ホーリーワークは神が人間に望んでいることだ」 そう言う友人のメールの表題には Jai Shree Krishna Yogneyi Juna ji そう書かれてありました。 友人は、リアルなスピリチュアルな体験にガイドするガイドさんです。 表向きは、普通の観光ガイドさんですが。 またの顔は、スピリチュアル・ヒーリングのヒーラーです。 その顔は、地元のインド人も知りません。 彼がそのような人物であることを知るのは、時期が訪れた方だけのようです。 と言うのは、私は友人と知り合うようになり、彼の正体を4年目にして知りました。 また友人も、私がヨーガインストラクターではないことを、出会って4年目にして知りました。 これまでに、渡印のたび何度かチャイをご一緒していましたが、お互

Living yoga ヨーガで生きる歓び

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「ヨーガは魂の処方箋ですよ」 今日は、ヨーガの取り組み方についてお話してまいります。 第一に大切なことは、ヨーガは定期的に。続けること。この二つです。 「また来ます」と言ったきり、しばらくヨーガから離れてしまう。 多くの方が、1回やれば効いたと思い込んでいるのですが、残念ながらこれでは、ヨーガの効果にはなりえないのです。 医者の処方する薬は続けられる方はいても、なぜヨーガの処方は続けられないのかと考えてみます。 即効性、実感がわかない、というのが原因として見当たります。 これまでの呼吸の仕方や曲がった姿勢、心の癖が、一夜にして変わることはありませんね。 理性的に考えれば、理解できることだと思いませんか? ヨーガに、即効性は期待しないで下さい。 一瞬の悶光で浄化された、考え方が変わった、過去から解放されたという魔法はありません。 副作用を生み出さないぶん、ゆっくりですが、確実にあなたの心を浄化へと促します。 その間に、身体の体質を改善し、鈍く重い意識を高め、魂を成長させていきます。 また、その間にもしなければならないこともあるのです。 反省の心を持つことです。 これまでの生き方を、省みることなのです。 神様から譲り受けた魂を表現する心と身体を、無防備にしていたことへの反省から始まります。 この心に至ってこそ、人は改心することに情熱がわき、真に変わっていくことができるようになるのです。 生まれた時は、ほとんどの方が心身ともに純粋で、健康であったはずです。 ですが、長く生きるうちに、食事内容や生活環境、ストレス、運動不足、逆に運動過多などの阻害要因から、心と身体のバランスを崩してきたのです。 崩れたバランスをもとに戻すには、それなりの時間を要します。 崩れたままでいることも、ある程度までは出来るかもしれません。 ですが、その方にとっての限界に近づくと、病気という警告が発せられます。 これは、自然の摂理です。 自然界では、人間が制することができなければ、神という自然が人間を制するようになっています。 急激な変化は、逆に反作用を生み出します。 ゆっくり、経過をみながら、段階に合わせて取り組んで下さい。 それが、あなたの心

心を静めて霊性を高める魂の道場

物質世界で生きる人間は、一日のうちわずかな時間であっても、静かに目を閉じ、内奥の神性さを感じて物質的意識とのバランスをとることが大切です。 そうすることで、物質的意識に偏りすぎず、霊性を高めていくことが可能になります。 ですが、そうした事を後回しにすると、人間の心は物質的な考えや悩みにとらわれるようになり、他人の意見や大衆的な情報に染まっていきます。 神性なエネルギーが枯渇すると、低い心が思考を占領するようになってしまうのです。 物質世界で生きる人間は、ほんの少しの静かな瞑想の時間を持ったり、夜眠りにつく前の数分を、内省や祈りにあてたりすることが必要なのです。 いつも傍で導いてくれる守護霊の存在を感じると、気分はまったく違ったものになります。 わずか4~5分でよいのです。 絶えずあなたを導いて下さっているその存在を感じることによって、本来の自分を取り戻せるようにるのですから。  しかし、現実にはその5分さえ、時間を取ることがなかなかできないかもしれません。 自分と向き合う意識はどんどん薄らぎ、物質的意識が思考を占め、 日常の自動的な生活にはまっていきます。 鈍く重い肉体をまとった人間が、常に自分の神性を自覚していることは大変なことです。 不安や恐怖をあおるばかりの情報社会の中で、自分一人の意志で霊性を高め、魂を成長させていくことは、並大抵のことではないのです。

学ぶ前に心の準備

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インドへ行かれる方から、よく頂くご質問があります。 「(ヨーガの)良い先生がいたら教えて下さい」 一見、前向きな質問に見えます。ですが、こうしたご質問をする方にかぎり、心の準備ができていない方が多いように見受けられます。 心の準備とは、受け入れる準備です。 学ぶことは、これまでの誤認を正知していくこと、新しい知識に出会っていく体験です。 とくに人間は、人生の意味を深く洞察していくために、生涯にわたり経験していくことになります。 ところが、こうした貴重な学びを、無にしてしまうことがあります。 それは、解らない者同士が繰り広げる議論です。 ヨーガ哲学や霊的な知識には、物質世界で生きる人間には、理解の範囲を超える内容が多くあります。 頭が悪いから理解できないのではないのです。 五感で感じ、言葉からその不可視の世界を知り、それを脳で理解するには限界を超えた内容だから、理解できないだけです。 人間には、どうしても知り得ないことがあります。 肉体という鈍重な波動をまとっているため、精妙なものは感知できない範囲があるのです。 人間には人間の領分があります。 分をわきまえて生きることを知ると、高慢という我が消極的になります。 目の前の現象から今の自分には何が大事なことで、何をしなければならないか、自分で見えてくるようになります。 すると、先走りすることも、的が外れた霊的修行に走ってしまうこともありません。 謙虚にこの道を歩む心の態度がそなわるからです。 そうした魂は、負の心に妨げられないだけに、善霊からの援助が受けやすくなります。 地上世界で知り得ないものは、人間は知らなくていいように、自然の摂理ではかられています。 ですから、地上世界に滞在する間に知っていくべきことを、学び知ることに目を向けることです。 その後のことは、肉体を脱いだ後の世界で知れるようになっています。 そこではそこの学びがあります。 そちらでまた学べるように、ここでしっかりと受け入れる準備をしていきましょう。 魂の成長は、地上での生活を終えた後も続くとされているからです。 「良い先生いますか?」 あなたに受け入れる心のご準備ができた時、先生は現れて下さいます。 求めよ、さらば見出

はずれた道から正道へ

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私は、皆様が瞑想できるようになるためにヨーガをお教えしたい。そう思っているのです。 「瞑想できる」と安易に思ってはなりません。 安易な瞑想の取り組みから得られるものは、自分の想像か居眠りです。 メディアの世界では、目を閉じて静かに座っているイメージを映します。 ですから、自分もすぐにそうできると思い込んでしまうのは、仕方ないことなのですが…。 瞑想は、ただ目を閉じているわけではないのです。 瞑想の心と体の条件を、あなた自身がそなえてからのことです。 ヨーガのポーズや呼吸法は、あなたが瞑想をしていくための準備です。そうした意味を正しくとらえて理解して、ポーズや呼吸法の実習を行って下さい。 そうして頂かないと、ポーズや呼吸法が、本来の意味と全く違ったやり方になります。 すると、道はずれていく一方になるからです。 ヨーガのポーズは、骨盤を修正したり、内臓の働きを良くしたり、血行を促すこともあるかもしれません。ですが、それを目的に取り組みすぎてはならないのです。 きちんとヨーガに適した目的をお持ちの上で、ヨーガの実習に取り組んで下さい。 ヨーガは、はじめの一歩が肝心であることをご存じでしょうか? 入会金を払えば、ヨーガのレッスンが始まるというものではないのです。 始めは、なんとなく・・・から始めて下さっても構いません。 ですが、ヨーガはなんとなくのものでも、単なるストレスや運動不足解消の為のものでもないのです。 早期のうちにヨーガの意味を正しく学びましょう。 ヨーガは、人間が地上で霊的な成長を為すことを助ける補助的なものです。 ヨーガに取り組む動機が、肉体やストレス解消ばかりに意識が向いた取り組み方になると、道はやはりずれていかざるを得なくなります。 このずれた道の過程には、飽きがやってきます。 自分好みにやっていても、同じことです。 やったり、やらなかったり。 正しく知識を学ぶことをおろそかにして、自分なりのヨーガの見方でヨーガを実習しても、何も成すことはありません。 あるとするなら、運動不足だと感じているその気持ちを晴らせた、という経験だけです。 するとやはり、飽きてしまいます。 変われることへの夢を抱いて手に入れたヨガマット。 いつしか部屋の隅

ヨーガに対する誤解

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ヨーガに関心を持たれている方は、着実に増えています。一方、この増加現象の裏面には、誤った情報を鵜呑みにしていらっしゃる方も存在します。 誤認は迷いを生み出します。 ヨーガで運動不足解消。これは、ヨーガの本質から大きくかけ離れた認識です。 その中で、ヨーガの深遠な面を垣間見ると、怪しさや不安の反応を示す方が少なくありません。 これは、正しい知識をそなえていないために起こる、無知な状態がもたらす自然な人間的反応です。 今回は、ヨーガに対する誤認、スピリチュアルという成長の道がもたらす迷いについて講義しました。 「ヨーガを学んでいますか?」 「はい。ホットヨガやってます」 こうした的外れな返答が、堂々と会話として認められる情報社会です。 ヨーガはポーズをすることと固定観念になってしまった方が大勢います。この偏見が生み出す障害は、一向にヨーガの全体像が目に入らないまま、ポーズだけに明け暮れてしまうことです。 ポーズの他にも、ヨーガの行法には呼吸法、マントラ、ムドラーなどがあります。 これらはプラクティカルなことです。プラクティカルなことのみ、ヨーガとして励むことは、肉体苦行にもなりかねません。 その結果、のめり込む精神状態に陥っている方もまた少なくないのです。 のめり込む、いわゆる中毒です。 過度な肉体運動には、ある一定の境地を超えると、脳内ホルモンの発生により、苦痛が快楽に変換される特色があります。 この状態は、激しい苦行の中でも発生します。 残業を繰り返し、必要以上に働きすぎる精神状態も、中毒症状の一種と考えられないでしょうか。 一頃流行ったエアロビクスが、まさにこの中毒性を生み出すものでした。 激しい運動量のエアロビクスは、呼吸も心拍数も限界寸前で行います。 苦しいはずが、ある一定の境地を超えると、ハイテンションの波が心身に訪れてくるのです。 このハイな心身状態は、中毒性をそなえています。この状態を求めて、エアロビクスが止められない方が続出し、大人気のエクササイズとして君臨しました。 現代の激しいヨーガがもたらす精神状態に、エアロビクスのハイ状態と近いものを感じさせられる時があります。 のめり込

スピリチュアルな能力開発について

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10年ほど前の話しになります。スポーツクラブで、ヨーガのクラスを担当していた頃のことです。 レッスン前、デッキの前でCDをセットしていました。すると、「あのー先生、質問なんですけどぉ…」と声をかけられました。 「19歳の娘がモデルになりたかったんですけど、無理そうなので、だからヨガのインストラクターになろうかと思うんですが、どこのスタジオに行ったらいいですか(どうしたら成れますか?)」 デッキから顔をあげてみると、ご質問下さったお母様の背後に、青白く覇気のない19歳のお若い女性が、ぼんやりと立っている姿が目に入りました。 「まず、ご自分でヨーガを実習してみましょう。先生になる為のお勉強は、それから考えてみるのはいかがですか?」とお応えしました。 私のそれは的を得た返答ではなかった様です。特にお母様の方は、訝しげな表情を見せられました。そして、何も言わずに去って行かれました。 それきり、お二人の姿をお見かけすることはありませんでした。 ヨガインストラクターをはじめ、ヒーラー、スピリチュアルヒーラー、スピリチュアルカウンセラー、エネルギーリーディングやヒーリング等々、霊能力を必要とする仕事を希望する方が、顕著に現れるようになりました。 その為の養成講座も、数多くあります。最近では、その道の門扉が広く開かれ、海外でも学べる道が敷かれるようになりました。 しかし、果たしてこれは、本当に道が開かれたと理解してよろしいことでしょうか? ヒーラーになる、エネルギーを扱うということは、霊能力を開発することです。霊能力は、人間の潜在能力の一つである霊的な力です。 霊能力には、癒しの他にも聴力、視力、感受力、テレパシーといった能力もありますが、霊媒と同じく霊の力のチャネルとなる一つのツールです。 現代は、癒し、ヒーリングを希望する方が多い様です。 こうした霊能力を開発して、人々の役に立とうとする方が増えていくことは、古来よりはかられてきた人類の進化が促されている証しです。その恩恵を受ける方も増え、よいことです。 ですが一方で、その裏面にも目を向けておく必要があるのではないかと考えます。 霊能